冷ややかな風の吹く朝だった。空は青く、雲は散り散りであった。樹木道路が濡れてゐる。狐の嫁入りである。校庭の半旗が静かに物悲しい、今日の日を象徴するかのやうな朝だった。
阪神淡路大震災から十年。あの日以前と以後で、ちょうど記憶に区切りがつけられてゐる。どういふわけか、忘れたいこと程忘れられない、むしろそこを基準に物事を計らうとする気運が、誰彼の中にはあるらしい。それが人の強さと呼べるものなのかどうか、私には分らない。
普段私達が磐石と呼ぶ地球も、たまにはあくびをしたり、伸びをしたくなる。たまたま、あの時、私達がそこに居合はせただけの話なのである。地球は気まぐれだし、私達も気まぐれだ。いつまでも悲しんではいないし、かといって何かの拍子に涙を流す。きゅうきゅうとしながらも、しかし地球も人も、生きていくのである。
あの時、私は大変な経験をしながら、しかしその実感を、ほとんど持てずにゐた。もちろん、幼かったこともある。もしあの時でなく今がその日であれば、私はもっと街を出回り、その現状を把握しようと努めたであらう。しかしそれ以上に、テレビに映る神戸の惨状は、あたかも遠い世界の戦争を眺めているかのやうな非現実感があった。――というよりも、壊れてゐることが当たり前のような雰囲気が、あったように思へる。その時は、「壊れた」風景こそが自然だったのである。真っ二つに折れたビルや、一面焦土と化したなじみの街を歩きながら、呆然としながら、どこか平穏な気持ちでゐられたのも、人智を超えた衝撃による諦念があったからだらう。
だが、人も街も作り直せば良い。神戸の人口は地震前の水準を回復したが、地震を知るものは全体の半分になってしまったといふ。実際、当時2歳だった弟は地震を覚えてゐないし、従弟妹たちなどは生まれてさえゐない。それで良いのである。神戸ルミナリエを見続けて、年を重ねるごとに「他所向け」のイベントになっていくことに、私は安堵した。神戸は観光都市であり、国際都市である。いつまでも自分達の傷を自分達だけで慰めてゐてはいけない。そういふ思ひを感じられたから、嬉しかった。そしてその分、この1月17日だけは、その事実を忘れさせてもらひたいのである。
あの日も今日と同じ月曜日だった。明日学校が休みになれば良いのに、などとよく言っていたものだが、実はそれは日々平穏な生活があってこそ考へる、ある種の贅肉のやうなものらしい。学校がやうやく形だけでも再開したのは、一ヶ月以上経った後の話である。
卒業間近の淡い哀愁漂ふ学校が終って、ふと神戸の中心街の方へ眼を向けると、そこに見事な虹がかかってゐた。思はず声を上げて、そして黙って眺めてゐた。なんと意味深な日なことか。やはり地球は気まぐれである。(2005年1月17日神戸の自宅にて)