FFT-Aveと並ぶFFT方面サイトの大御所であつたSence of Justiceが、今度閉鎖されることになつた(詳細)8月19日付け――随分気付くのが遅かつたな。
あそこは、私が一番最初に辿り着いたFFTのサイトであり、私のインターネット歴の開闢期に関わつたサイトであつた。勿論、先方はそんなことを知る由も無いだらうが、このサイトと、FFT-Aveの出会ひがなければ、今の私はなかつただらう。最近更新が滞つてゐたが、閉鎖されるとは思つてゐなかつた。何故だらうな。やつぱり、閉鎖して欲しくないと思つてゐたからだらうか。時期が時期だけに残念でならない。
出来ることならコンテンツのいくつかを引き継がせて欲しいのだが、容量逼迫とかドメイン失効と言ふわけでもないのだから、難しいかも知れない。
突つ込みがありましたのでお答えいたします。ご意見ありがたうございます。
日々の暮らしの中に、文化伝統を見いだすことが可能なのか。と考へてみた。例へば、私は社会人で、勿論毎朝会社に通つてゐるのだが、この通勤に使ふ自転車といふ道具。道路といふあり方。鉄道といふシステム。或いは電気。或いは照明。これらは全て、長い長い歴史が培つたものである。これを文化伝統と呼ぶことは可能だらうか? ――おそらく無理だと思ふ。となると、文化伝統は嗜好や趣味といふレベルでとらへるべきではないやうな気がしてきた。
そこで、改めて色々考へ直してみたところ、どうも、文化だの伝統だのと言ふものは、例外なく保守的なものである、というよりも、むしろ保守的であらうとするものが文化や伝統の本質であるといふ結論にいたり、だからこそ、それを守りきる事に時として命を懸けたり、それを守りきることに誇りを感じたりするものなのだと考へるやうになりました。さう考へれば、正統なHTMLの記法や正統な言葉遣ひなどは、まだ文化、伝統と呼べる余地は残つてゐるやうな気して、それは、今なほその正統を守らうとする者がゐるからに他ならないからです。
事実、私が歴史的仮名遣の正当性を知つたのは『正仮名復活論』の賜であります。Valid、或いはStrictなHTMLの正当性を知つたのもまた然りです。それが無ければ、私はその事実を知りようがなかつた。ゆゑに、私は歴史的仮名遣が文化、伝統であり続けるためには、それを常に守らうとする運動、或いは行動があれば良いといふものではなく、なければならないものだと思ふのです。
歴史的仮名遣は、当たり前ですがその長い歴史を担つてゐる分、表記は揺れ動いてゐます。特に音便や字音仮名遣の揺れは大きい。私自身、蝶を「てふ」と書くやうな字音仮名遣には困惑しますし、「てう」や「ちよう」もしくは「ちょう」などに改めるべきだとも思ひます(尤も、これはとても慎重に行はなければなりません。ただ、拗音や吃音の小文字は音便的な扱ひで残るやうな気がします)。保守であるためには、原理原則を尊重しつつ、常に細やかな修正が求められるやうな気がします。大がかりに原理原則をねじ曲げる事を拒むのが保守の本質であると私は思ひます。
だから、歴史的仮名遣が難しくても、それはさほど重大な問題ではなく、難しい字音仮名遣は改めれば良いと思ひます。要は一番の根本を保ち続けることが、歴史的仮名遣復興運動のあり方(さうでないのなら、さうあるべき)だと思ふのです。
勿論、同じ論理で言へば、戦後日本人が守り続けた(と言つても良いでせう)現代仮名遣ひも、約60年の文化・伝統を持つと言つても構はないと思ひます。かくいふ私も、生まれ持つてからまあ今でも、現代仮名遣ひの文化伝統の中に生き続けてゐると言へます。そして、幾千の中には廃れる文化、滅びる伝統もあります。さうした淘汰の歴史をくぐり抜けてきたものには、必ずどこかで正当性を持ち得ると私は信じてゐます。だから、もしかしたら現代仮名遣ひも、あと数千年生き続けることが出来れば、何らかの正当性を帯び出すのかも知れません。ただ、その苦労をしてまで、歴史的仮名遣ひの文化伝統を捨て去る理由が、私には分らないのです。少なくとも、今の私には数十年の伝統よりも千数年の伝統を誇りたいと、さう思ふのです。
今すぐ歴史的仮名遣に大改革する必要はないのです。現代仮名遣がもし破綻へと向かふ運命であれば、歴史的仮名遣を守り続けることに価値はある。現代仮名遣を疑問視し、歴史的仮名遣の正当性を支持するのであれば、それは守るべきものに他ならず、そして守るべきものには、それ以外のものに対してその正当性を主張し続ける事が必要であると思ふわけです。だから私は、歴史的仮名遣に賛同する以上は、歴史的仮名遣の運動に賛同し続けます。それは詰まるところ、歴史的仮名遣の存続を支持し続けることに他ならないのです。
周圍の人間が皆「現代仮名遣」を使つてゐる中で、一人だけ正假名遣を使つてゐる事を考へてみる。その人は、正かなの文章を書く時と、「現代仮名遣」の文献を讀む時とで、態度を切替へてゐる。さう云ふ「切替へ」が生ずる時、その人の生き方として「正かな」はどのやうな位置にあると言へるのだらうか。「現代仮名遣」に觸れる機會が多い時、その人にとつて「現代仮名遣」の方が、正假名遣よりも「大きな存在」であると言へるのではないか。實際、現代の日本において、「現代仮名遣」の中に生きてゐる人は多いし、正かな派の人でも「現代仮名遣」と無縁でゐられる人はゐないだらう。さうなると、「現代仮名遣」をベースに、時として「正かなに切替へる」と云ふのが、正かな派の人の生き方になるだらう。傳統・文化が「生きてゐる」と云ふのが、生活の中に定着してゐる事を指すのであれば、時々「切替へる」先の正假名遣は、最早、生活の中に定着してゐるものではないのだから、傳統・文化として「生きてゐる」とは言へないだらう。
大変耳の痛い言葉です。
会社のメモ書き、PC内文章・下書き等は殆ど正字・歴史的仮名遣で書いてゐますが、まあ、これは「趣味」或いは「嗜好」の範囲を出てゐない。趣味や嗜好で終わるものを伝統、文化と呼べるか――私は呼べないと思ふ。さういふ意味で、この国で言はれる所謂『文化』や『伝統』の殆どが、およそそのやうな域に達せぬ未成熟極まりないものなのだらう。
ただ、それでも私は歴史的仮名遣を使ひ続けるし、正字も出来ればもつと覚えていきたいと思つてゐる。歴史的仮名遣が現代仮名遣ひより正統であることは理解出来たし、理解した以上はもはや現代仮名遣ひに戻ることは出来ないのである。
とある掲示板での私の殴り書き。そこでは発言がログと共に消去されてしまふので、後で読み返すメモとして記録。勿論異論・反論は歓迎します。それにしても、例の闇黒日記の記事を読んでから書けば、もつとまとまつた発言になつてゐただらうにな。
(前略)
さて、少なくとも日本に関して言えば、ブログはあくまでも「便利な日記ツール」の域を脱していません。ブログはWeblogであり、「Web Log」であり、「We Blog」であるのですから、ブログツールが即ちブログの本質を表すものではありません。例えば、掲示板も本質的にはWeb LogでありWe Blogになりえます。スレッド主を管理人に限定すれば、よりそれらしくなるでしょう。
実は、こういう使い方は以前からなされてきました。掲示板を日記として使う人は昔からいましたし、実際今もいることでしょう。
一方、「だから今の掲示板と同じ問題を引きずり続けている」という事も出来ます。
掲示板システムにとって最大の問題点は何か。それは、身近で言えば「オーボンヌ修道院地下書庫掲示板」に代表されるように、「蓄積された情報の再利用性に欠ける」事です。掲示板はCGIであり、殆ど全ての掲示板が、各々独自の形式で情報を保存します。故に、その掲示板『だけ』にしか通用しない検索システムがあり、その使い勝手の善し悪しは全て『ツール』に依存することになります。(だから私はリンク集を作ってアクセス性を向上させようと思い立ったわけですが)
そして「記録はあくまでも記録」です。確かに記録は重要です。だから「新潟中越地震復興ブログ」などはある意味で価値を持ち得る『可能性』があります。
しかし、後から読み返してみた時、記録は記録のままではいけません。集計し、統計し、なにがしらの「加工」が必要になります。記録は、その「加工」の段階に使われて初めて価値を有します。ノンフィクション作家はその「加工」を担当していると言っても良いでしょう。私たちは殆どの場合、記録そのものを見ず、その加工された情報を見ています。(勿論、そういう意味で危うさがあるのは言うまでもありません)
身近な例を出すと、例えば「アクセスログ」も立派な「記録」ですが、これだけでは何の役にも立ちません。
何日間か集積し、それを集計して、グラフなり何なりと「加工」して初めて情報としての価値を持ちます。
だから、地下書庫掲示板も、どこか別の場所で記録を、必要とされる人に必要なものを適切な形で提供できるよう加工する必要があるわけです。これが案内書を作ろうと思った第二の動機です。(だから、私は案内所はもっとたくさんあっても良いと思うのです。正直アレは今一であると思っています。サイトが星の数だけあるように、加工法も星の数ほどあるべきです)
そこにつけて、ツールで構成された今の所謂『ブログ』はどうか。極端に言えば、今のままではWebにとて有益どころか有害にさえなり得るだろうと私は見ています。
ブログはあくまでも記録です。コメントやTrackBackによる議論はあるが、そこから『結論』が出されることは非常に少ない。言うだけ言って終わりのケースが大概です。本来であれば、その議論が『終わった後』で、冷静な視線でその議論を一から検証し、なにがしらの結論、或いはまとめを出さなければ、記録は記録のままで終わります。そして、ことある度に同じような議論が交わされるだけの、何の価値も生み出せないまま記録だけが溜まっていくという状態になります。特に政治系ブログはこの傾向が強いですね。
故に「サイトをやめてブログ化する」というのは、多くの場合、自分の出す情報価値の実質的な放擲であると私は思います。
ついでに言えば、ブログの本質から見て、ブログツールの機能は全般的に使いにくい。議論が加熱し、コメント、TrackBackが乱立すれば、確実に混乱が生じますし、事実生じています。誰が誰の何に対して何を言っているのか。或いは誰が視野狭窄に陥り、誰が全体的な話をしているのか、そういう『議論の場』が全く見えなくなります。TrackBackを排しコメントだけに絞ったとしても、コメントは要するにsage進行のスレッドと同じですから、多くのsage進行スレと同じく結論は出ぬまま時と共に忘れ去られます。全く使いにくい。
まあしかし、それだけなら、まだ「使いにくい」で済むので良いでしょう。しかし、この『TrackBack』が検索エンジンの『ものさし』になるのだからたちが悪い。
今までは、掲示板の情報は掲示板の中で帰結していましたから、ハイパーリンクの数もたかだか知れていました。しかし、沢山のブログが沢山のリンクを持って繋ぐブログシステムは、『まとめ』よりも『記録』を有益な情報と検索ロボットに錯誤させる危険性があり、事実晴郷さんの挙げられた例ではそうなってしまっています。これは、これからのWebにとって非常にマイナスに作用するのではないかと私は思います。情報源として記録があった方が良いのは言うまでもありませんが、記録だけではその記録だけが一人歩きしかねません。
(話は逸れますが、実は、私はこの点においてMixiのようなSNSシステムを非常に期待しています。何故なら、日記は日記として限定された使い方をされ、コミュニティのような場も限定されており、Web全体には何の悪影響も及ぼさないからです。どうやら、限定と言う言葉が今の私のWeb観の中で非常に重要なキーワードのようです。一見無限に広がるWebとは矛盾するような言葉の筈なのですけどね)
最新の情報だけをみるのであれば、記録としての意味はない。そんなことは従来の日記システムでも出来る。晴郷さんが日記にロボット排除の記述をしても全く問題はありません。何故なら、日記は情報の再生産として存在するわけではないからです。自分で読み返し、、そして自分で納得する。日記というものはそれで十分なのです。本質は、場所が机の引き出しだろうがWebだろうが変わらないものです。
正直、Webサイトはそんなに駄目なものだろうか。と思います。最初は屑な情報でも、何度となく『修正』を繰り返せば十分に価値を持ち得ます。ブログにはそれがない。駄目な情報も良い情報も、「記録」として一緒くたにまとめられてしまう。だから記録の質を保持するのが非常に難しい。それこそ「多くの人の中で私だけが知り得、しかも多くの人が必要とする首尾一貫した情報」でない限りは、殆どのブログが価値を失してしまう虞があるのです。
従って、現時点では私はブログは「非常に限定された利用法としてのみ価値がある」としか見ていないのが現状です。システムに溺れてはいけません。ツールに扱われてはいけません。
私のサイトも日記のような「ブログ」が存在しますが、早く情報を引っ張り出してサイトとして加工していかなければなあと考えているところです。
(後略)
繰り返しますが、あくまでもブログによるWebサイト全体の構築といふのはどうかと言ひたいのです。サイト内に存在する一つのコンテンツとして限定して扱ふのであれば、ブログは有益なツールになり得るでせう。
要は、際限なく蓄積される記録と議論を、包括的にまとめ上げ、結論へ導く『何か』がブログには必要であるやうに思へるのです。当然、『自分は蓄積専門、考察は他所でやつてください』といふことはアリですが、いひだしつぺである以上は、或いは喧嘩をふつかけたからには、どこかで何らかの始末をつけて欲しいと思ふのです。――ええもう、例のHTML論争なんて誰も収集をつけようとしないものでねえ。
最近のWebの傾向について闇黒日記平成十七年十月二十一日から平成十七年十月二十二日にかけて上手くまとめられてゐる。そして、言葉言葉言葉に関しての話もある。
しかし、闇黒日記はブログであるから、何れこの情報も、厖大な量の過去ログに埋もれてしまふだらう。過去ログには素晴らしい文章もあつたし、どうかと思ふ文章もあつた。しかし、それは「過去」であるから修正も指摘も出来ない。ただただ記録として堆積して行くのみである。
ゆゑに國語國字問題解説やPC Columnsにそれらがまとめられていくことを私は期待してゐるのだが、野嵜氏自身は「俺はあまり読み返したくない」(これは引用だが、元のソースが見つけられないので確実性を求められるq要素でマーク付けできなかつた)といふやうに、あまりさういふ気にはなれないらしい。実に惜しい話だと思ふ。
そりあ、他人任せでなく自分でそれをやつてのければ何も問題はないのだらうが、遺憾ながら私は國語の專門家
ではない。知識量でも圧倒的に劣る。劣化コピーでは言葉言葉言葉を越える事は出来ない。WebやPC関係にしても同様である。
つまるところ、知識記録の集積が今の私には必要であると思ひ、最近雑念雑記での『発言』を控へて来た。
しかし、どうも違ふやうな気がする。悪からうが劣化コピーだらうが、長く継続し、維持・管理、そして修正を重ねていく事にサイトとしての価値があるやうな気がする。ここ数日より良いWorld Wide Webを目指す為の覚書に数項程追加したが、これも今まで雑記で書き置いていたことを発掘してまとめたに過ぎない。しかも、良い記事に仕上がつてはゐない。これから大いに加筆修正していく必要があるだらう。それでも構はないのかも知れない。いひつぱなしのブログから、まづ第一歩まとめの形へ進み出したことは、着実な前進であるのかも知れない。
だが、國語問題について言へば、あまりにも知識量が不足し過ぎてゐる。情報の絶対量の不足もあるし、專門家
の言ふことは今一分かりづらい。「私の國語教室」でさへ分りづらいところが未だにある。そんな私が、素人が素人つぽいことを言ふ
だけでは何にもならない。そこで私にとつて言葉言葉言葉はとても重要な位置にあり、だからこそ、今後言葉言葉言葉が衰退するのは私にとつて非常に困る。一方、言葉言葉言葉自体は「定番」であるのだが、これは拙い事だ。
と仰る。確かに言葉言葉言葉を肩を並べる、或いは越えるサイトが専門家の手で生まれる事を期待するより他はないのだらうが、さう言ひ続けるだけでは今と何も変はらない。どうにかならないものか。
ISO-HTMLの仕様書へアクセス出来ないわけですが、何かあつたのでせうか?
どうもスキームがhttpからhttpsに移行する際に生じたトラブルのやうです。今見たら対応出来てゐましたが、何ともかんともな話です。教えてくださつた方、どうもありがたうございます。
はてなにRubyのプログラムで今月「日曜日」が何回あるのか教えてください。といふ質問があり、Rubyがダメな人はRuby以外でも可
なんて書いてゐるので、あまりこの方面には不必要だと思はれる「なでしこ」で考へてみた。
まづ、正攻法で最初に思ひついたのが以下のプログラム。
今月で条件分岐 1ならば初期値は31 2ならば閏年判定 3ならば初期値は31 4ならば初期値は30 5ならば初期値は31 6ならば初期値は30 7ならば初期値は31 8ならば初期値は31 9ならば初期値は30 10ならば初期値は31 11ならば初期値は30 12ならば初期値は31 「{今年}年{今月}月1日」の曜日で条件分岐 月ならば初期値は初期値から6を引く 火ならば初期値は初期値から5を引く 水ならば初期値は初期値から4を引く 木ならば初期値は初期値から3を引く 金ならば初期値は初期値から2を引く 土ならば初期値は初期値から1を引く 日ならば初期値は初期値から0を引く 初期値を7で割ってそれの整数部分に1を足して言う ●閏年判定 もし今年を4で割ってそれが0ならば もし今年を100で割ってそれが0ならば もし今年を400で割ってそれが0ならば 初期値は28 違えば 初期値は29 違えば 初期値は29 違えば 初期値は28
今月の日数を求め、そこから1日の曜日に応じて数を減らし、7で除算したものに1を足して出力するといふもの。……まあ、見れば解るとは思ふが。
とにかく、おそろしく単調なプログラムである。美しくない。日数計算に加へて閏年の判定までやつてゐるのだから、まあ仕方がないやうな気もしないではないが、そこを極めるのがプログラムの醍醐味である。単調な部分を大胆に削つてみた結果、以下のやうになつた。
初期値に「{今月}月1日」から「{来月}月1日」までの日数差を代入 「{初期値}」回、もし「{今月}月{回数}日」の曜日が「日」ならば、答は答に1を足す 答を言う
アハハ、なんと3行。こんな風にさつと書いてその場で実行出来る、この手軽さがインタプリタ言語の強みである。
月の日数は、今月の1日から来月の1日までの日数差で求め(この時閏年の判定も内部で計算される)、その日数分反復し、反復回数を日にとして曜日を求め、それが日曜である回数を求める……といふか、文章よりプログラムを見た方がずつと解りやすいのは無性に悲しいが、まあそれは考へないでおく。
ちなみに、上はあくまでも「日本語らしく」を意識して書いたもので、以下の関数的な記述と全くの等価である。読み難いのなら適度に改行を加へても良い。但しインデントを入れて処理範囲を限定しなければならないので注意する。
初期値=「{今月}月1日」から「{来月}月1日」までの日数差 「{初期値}」回 もし「{今月}月{回数}日」の曜日が「日」ならば 答=答+1 答を言う
取り敢へず、「なでしこ」ッてかういふものですよといふ話。
雑念雑記は、言ふまでもなく日付URI生成型の、所謂「ブログ」の形式を取つてゐる。
今まで雑念雑記は、高天原下のコンテンツの更新をする際のメモ書きのやうな、備忘録として使つて来たわけだが、昨年末辺りからIDを付与し、それ自体が一つの「記事」となるブログ的な形式が濃くなつてくると、どうしてもメモにもある程度の質量を考へてしまふやうになつてきた。つまり、「一言言ひ放つ」みたいな使ひ方がし辛いわけである。おまけに、日記的な事は殆どmixiの方に書いてゐるのだから、一層URIを付与してまで書くことを求めてしまふ。なんだか本末転倒のやうな気がしてならないのである。
闇黒日記みたいにテキストだけをひたすら書き連ねるかたちの方が、確かに書くのは簡単なのだが、それでは再利用性を著しく欠く。備忘録なのだから、後で読み返せなければ話にならない。どうしたものだらうなあ。
そんなこんなで、月夜同舟ばかり増強されていく最近の高天原です。