例のエロスタイル企画、まだ構想さへ出来てゐません。2月中には出来ればいいナア(てけ
絵なんて描けないし、文章でエロくするとどぎつくなって嫌だし、そもそも久樹のエロスってなんなんだらうみたいな根本的自問まで始まる始末でありまして云々。
今日のNHKスペシャルは面白かった。ここ数ヶ月で乱上下する為替の動きは見てゐたが、その裏ではやはり多くの投資家達の莫大な金と思惑が渦巻いてゐたんだなあといふのが綺麗に理解出来た。
番組ではその動きを、気象学の逸話(本来はカオス理論の一つの例であるが)の一つである「バタフライ効果」に見立ててゐたが、非常に的確であると思ふ。ある場所で起こった小さな事件、噂が、人の手を介することによって大きなうねりとなって、あまたの人の思惑を動かすのである。それが正しいか正しくないか、或いはその話が真であるか偽であるかさへ、そこには無意味であり、必要なのは、それによって他人がどう思ふか、市場がどう動くか、そしてどう動けば自分が得をするか、なのである。
翻ってみれば、私はあまりにものんきな生活をしてゐるのだなあと思ふ。1秒のミスで数兆の金が動き、多くの会社が吹っ飛ぶ時代に、私たちは生きてゐる。利益を求めなければ喰はれる一方。が、市場原理だけに動けば雪印やライブドアのやうに突然市場からの「裏切り」に遭ふ。経営といふのは本当に人の情では生きていけない世界なんだと思ふ。そこまでして、一体何が得られるんだらう。誰をどう喜ばせようと思ってゐるのだらう。と私は思ふのだけど、それは、所詮一庶民の虚しい愁歎に過ぎないのだらう。
NHKは、かういふドキュメンタリについて非常に興味深い番組を創る。民放の切り口も面白いのだけど、どうしても底が浅い。どちらが優れてゐるとは言へないが、かういふクオリティのある番組を創ってゐるといふ面について、NHKを評価する姿勢はあっても良いのではないかと思ふ。受信料とかデジタルとかの是非はともかくとして。
- 281 :名無し草 :2006/01/26(木) 00:41:50
- 平野さんはどうしてるかな。
- 近頃のコミュンはああいう知的な文章を書く人がいない。
- にゃおりんとか今村氏も昔に比べてつまらなくなっているし。
- 282 :名無し草 :2006/01/26(木) 05:50:54
- > 近頃のコミュンはああいう知的な文章を書く人がいない。
- 賢しらぶってるヤシは多いけど(笑)
- # まぁ、自分の事を棚に上げてるわけですが(笑)
- > にゃおりんとか今村氏も昔に比べてつまらなくなっているし。
- なんか面白いネタがあれば食いつくんだが。
- というか、まぁ、昔とあんまり変わった気がしないんだが……。……つまり昔から面白くない、これ。
- あと、ほかの日記に対する言及だけど俺が突っ込まなくても血刀を引っ提げた若い連中がちゃんちゃんばらばらやってるわけで、俺の出る幕はないよなぁ、とか。
このところの自戒のメモ。論理的な思考と、冷静な判断と、的確な指摘。まさに知的。かういふものを目指したい。今のようなレベルでは全然駄目なのだ。
とりとめのないことがたまってきたので、まとめて書く。普段ならミクシ行きの文章だけど、たまには良いだらう。
指輪世界の第二日記「続brとp」及びそれ関連の久樹の総括
文学が文学の流れを有するように、HTMLにはHTMLの流れがある。文章をマーク付けするところからスタートしたHTMLは、初め、文章は連続的なものであるといふ原則に対してそこまで衝突してはゐなかったと思ふ。かつて――それこそ黎明期の話――尻pタグなんて言はれる時代もあった。
しかし、結果的にHTMLは構造化の向きに流れ、その課程としてp要素の今のやうな使はれ方が確立された。そして、それは構造化の一目標であるXML処理においてある程度成功してゐるといへる。その結果、連続する段落間の「間合ひ」といふ文章の一情報が欠落することになった。
私が思ふに、それはHTMLの規格としての利便性と、文章を書くと言ふ表現力を秤にかけた結果ではないかと思ふ。
考へても見れば、文章の表現力といふのはどの形式にしたってある程度は欠落する。txtファイルには筆跡や、ミリ単位の行間管理は出来ない。それが実現しようと思へば、原稿用紙をスキャンしてそのままpdfファイルや画像ファイルとして公開するしかない(官公庁では時々さういふ告知文を見るが)
pタグのへぼいところは、pタグを使うということが、改行を制御するのを放棄するも同然だ、という点です。
と仰るが、これはHTML的には間違ってゐる。p要素を使はうがbr要素を使はうが、そもそもHTMLに改行の制禦なんて出来ない。出来るのは、改行といふ結果ではなく、改行によって表したい構造であり、意志であり、意味なのだ。例へば、br要素を――特に連続した際――無効化するユーザスタイルを使ふ方もゐる。改行を制禦するのはHTMLではなくCSSの役割だ。さう言ふ意味では、pre要素だってHTMLらしからぬ要素である。何度も言ふが、ブロック要素やインライン要素などといふのは、スタイルに依存した旧時代の考へ方である。
だから、HTMLでシリアル(連続的)な文章の間合ひを指定したい、といふ考へは、残念ながら今のHTMLの思想と相容れる事は出来ない。写真で完全な立体構造を再現出来ないやうに。或いはCDで劇場のやうな衝撃的な臨場感が味はふことが出来ないやうに。文章をHTMLに「変換」するとき、互換性だとか規格としての一貫性のために、何らかの情報を犠牲にするのは仕方のないことだと思ふ。確かに、今はbr要素を使ふことによってそれを擬似的に表現することは出来るけど、それは立体描写に対する遠近法であるやうな、あくまでも代替的な手段でしかないことを自覚すべきだと思ふ。
本質的な解決策は、間合ひ要素といふのを新設するしかない。br要素の連続なんて好い加減なものではなく、しっかりと、]]>と言ったものをp要素の間に指定すれば、CSSに左右されなず、かつ歴史的に一貫したHTMLに仕上がるだらう。かういふ意見を提案することはとても意味のあることだと思ふ。
HTMLにはHTMLの流れがあって、だから、HTMLにも得手不得手はある。HTMLさへあれば何でも実現出来ると考へる人を「HTML万能論者」と呼んでも良いと思へる。
といふかですね。別に歴史的仮名遣だから全て正しいとか、さういふわけではないのですよ。何度でも言ふけど、現代仮名遣と歴史的仮名遣を比較したら、断然歴史的仮名遣の方が合理的なだけの話なのですよ。私は非合理なものをわざわざ好んで使ふやうな物好きではない。
私は歴史的仮名遣の「をかしい部分」は早々に是正されるべきだと常々思ってゐる。だって、歴史的仮名遣の歩みは約60年前から途絶してゐるんだよ? 当時公表された現代仮名遣だって、今日に至るまで良くも悪くもどんどん修正されて来てゐて、その年数分について現代仮名遣を評価するのは間違ってゐない。(と言っても、それは原則が駄目過ぎるからといふ面もある点も強調しておく)
だから歴史的仮名遣も、その原則を尊重しつつ、今に合はせた軌道修正をすれば良い。蝶々を「てふてふ」と書くなんて、どう考へても現代の気質に合はない。字音仮名遣は大幅な修正が必要だらう。しかし、それは歴史的仮名遣を破毀するわけでは決してない。むしろ、歴史的仮名遣の表面的な部分にのみ囚はれて、単に語を固定化すれば全てが解決するなんて考へる方が時代錯誤であり、よっぽど問題である。
旧字、歴史的仮名遣を完全に貫くのは、あくまでも暫定的措置。自分が勝手に表記をねじ曲げるわけにはいかないから、慎重かつ正当に修正されるその日まではこの書き方を貫く、さういふ姿勢であるべきだ。大切なのは、あれだこれだと瑣末なことに拘るのではなく、明日をより良い方向へ変へていかうといふ姿勢ではないか。その点に関して、変な
正字正仮名主義者も変な
新字新仮名主義者も所詮は同質といへる。
私は、歴史的仮名遣が復興して正当に修正される日なんて待てないし、或いは、役場や専門家の出すものはあくまでも原則であって、言葉は変はっていくものなのだから、歴史的仮名遣を原則に沿ってどんどん修正していくことは当然の事だと思ってゐる。勿論、素人論法が危険であるのも重々分ってゐるので「お前この書き方はをかしいんぢゃないか」と言った指摘は大歓迎したい。それが言葉に対して真摯であるといふことではないだらうか。
歴史的仮名遣が「難しい」と言はれるのは、一々小さいことに拘り過ぎてゐる、そして見る方もそれを強要してゐるからぢゃないかと思ふ。父(ちち)ときたら爺(ぢぢ)、地下(ちか)ときたら地面(ぢめん)。連音は揃へて少しづつ。活用は統一して言ふ、言ひます、言はう、言はない、言へ。――ごく自然の話ぢゃないか。理路整然と窮屈は次元が違ふ。
さとみかんという個人用の Web アンテナがあって、そこにリンクされているサイトにも変なのが多かった。 HTML の仕様は正しい。 Web サイトは準拠すべきである。 などなど。 これらは人間が決めたルールに従えと言っているに過ぎません。 例えば建築標準仕様書に従えと声を大にして主張しているようなもの。「業界」に居れば当たり前で、Web という「業界」では HTML というルールもある。 ですが、何度か書いているけれども、プレーンテキストで公開しても差し支えない。
そのうちにアクセシビリティやらユーザビリティやらを言い出して、余計混乱する。 そもそもアクセシビリティとユーザビリティの区別が付いていないから わけが分からない。 多数決で済むようなことを、正しいと言って譲らない。 常識に欠けていると思わざるを得ない。
常識は歴史に裏打ちされているから常識であって、その点で単なる価値観と区別され得る。 百年二百年、親子数代にわたって継承されている価値観は正しいと見做して良い。 一方、「常識を疑え」という意見が世間では人気があるけれども、簡単に言えば歴史を否定して「自分の価値観」を優先させるということ。 だから相対的に多くのデータを必要とする。 聴衆を「説得」するために。
(中略)
機械処理の点から言えば段落という意味を表わすために
]]> でも構わないし、HTML 4 では W3C Markup Validator で valid の「評価」が出ます。 問題になるのは同じ規則で一貫してマークアップされていないケース。
まづ、建築仕様書は法令上従はなければならないものであり、HTML仕様書のやうに法的根拠を持たないものとは区別した方が良いと思ふ。まあ、単なる言葉尻の問題なのでどうでも良い話ではあるのだが。閑話休題。
問題なのは、建築仕様書に準拠することは建築業界として「当たり前」であっても、HTML仕様書に準拠することがWeb業界として「当たり前でない」といふ点。当然、決まりといはれてゐる以上は守ってはいけない理由はなく、また守りたくない相当の理由がない限りは、やはり準拠するのが常道である。勿論、その相当の理由を決めるのは個人の価値観ではあるが、そこに常識とか価値観とか歴史的背景や、それによる結果的利益を考慮するのは普通の話であって、或いは閲読者がその価値観の所為で不都合を受けるのであれば、相応の提議をするも当然の話である。提議を拒否するのもありだ。
しっかりと脳内仕様に沿った一貫性のある記述であれば、プレーンテキストで公開することに何ら問題はない。が、これは閲読者には相当の不便を強いる。何故なら、それはあくまでも自己流の一貫性に過ぎないからだ。機械的処理は可能だらう。しかし、原文に特別な機械的処理を施さなければ読み辛いやうな形式は、汎用的な公開向けとして相応しいかどうか疑問である(これは自己流XML原文をそのまま公開する行為にも言へる)。
最大多数の最大幸福を実現するためには、広く普及してゐる仕様に準拠することが一番手っ取り早い。これは一貫性の共有といふことも出来る。その方が、機械的処理を行ふ上でより有利であることは言ふまでもない。現状、自己流のHTML文章といふ括りで見ればWeb上の主流であるが、一貫性の共有量で考へれば、個々がバラバラのやり方で行ふ自己流HTMLよりも、仕様といふ一貫性に沿って作られたHTML文章の方が遙かに多いといふ点は、強調しておくべきだと思ふ。
但し、本当にさうなのかは数へた事がないので確信は持てないから、他に主流でありさうな2ch式記法や或ブログツール式記法に従ふといふのも、スタンスとしてはアリだらう(私は面倒なのでしないが)。また、仕様に準拠してゐるからと言って必ずしも一貫性を保てるかと言へば、さういふわけでもない。この辺りは仕様の限界とも言へるが、XHTMLではこの仕様の限界がさらに拡大された気がしてならない。まあ、現状Webに求められるのは「文章の公開」ではなく「作品の公開」であるから、ひどく曖昧になりつつあるのは仕方のない成り行きではあるのだけれど。それを憂いて、何らかの一貫性を提唱し普及を唱へることは、別に悪いことではないと思ふ。説得力があるか無いかは個人の問題だ。
書いてみると、別に三宅さんに対して言ったわけではないやうな記事になってしまったが、まあいつもの話。
究極の一貫性の一つの形は、全てRSS化してしまふことだ。RSSは極めて厳密な仕様であるため、現状下手なHTML文章よりもよっぽど一貫性の保てる仕様といへる。次点はISO-HTMLだらうか。禁止事項(厳密性)の量は一貫性の維持に多少の貢献を果たす。
余談だけど、当サイトで歴史的仮名遣を書くとき、促音及び拗音は小書きにしてゐる。これは現代仮名遣の利便を取り入れた形だ。一方、颱風(台風)や障碍(障害)など、明らかに置き換へがをかしいと思へる漢字については旧字体で書いてゐる。こちらは旧字体の利便を取り入れた形だ。
これは自己流の一貫性に過ぎないが、文章そのものに機械的な処理を施す事はない(検索なら別の語がいくらでもある)ために取り入れてゐる。勿論、正字正仮名派や新字新仮名派からみれば一貫性に欠けると言はれても仕方がないが、旧字体が必ずしも良いかと言はれればさうでもないし、新仮名も然り。私としては一貫性を欠く相当の理由であると考へてゐる。
尤も、全体としてそこまで読み辛い文章でにはなってないと思ふ。勿論個人的な見解に過ぎないのだけれど、実際問題、ほとんど現代文の書き方と同じではないだらうか。読み辛いといへば、どちらかといへば文体よりも文章の内容が読み辛いといふ意見の方が多さうだ(駄目ぢゃん)
指輪世界の第二日記「brとp、間隙と塊、シリアルとブロック」
ブロック要素は必ずしも独立してゐるとは限らない。といふか、さういふ話は仕様書上に一切出てこない。兄弟要素は連続してゐるとみなす事は十分に出来る。第一hr要素だってブロック要素(参照HTML 4 Document Type Definition)だが、果たしてそれで文章が切れてゐると言へるだらうか。
ityou氏の仰ることは確かに説得力がある。私も、section要素やp要素で分けるよりhr要素やbr要素でフラットに分けた方が良いと思ふ場面は少なからずある。といふより、日本におけるp要素の使はれ方はbr要素の延長に過ぎない気がしないでもない。段落といふのは、長い文章の中の、一つの主題をもってまとまった部分。また、その切れ目。段。節。
とされてをり、一つの節としてまとまってゐない文章はp要素で分断すべきでない。
ただ、ここで言ふ「一つのまとまり」をどこまででみなすかでityou氏と久樹に違ひがある。私は形式段落は十分に一つのまとまりであると思ってゐるが、ityou氏は形式段落ではまとまりとは言へない、とお考へのやうだ。まとまりであれば抱括すべきだし、まとまりでなければ包括すべきではない。といふ点においては共通してゐる。
土台私は、あくまでも単なる実体参照上の定義に過ぎないブロックとインラインといふ区別自体が、あまりにも一人歩きしすぎてゐると考へてゐる。自然文章を自然なままマーク付けする発想から見れば、インラインやブロックといふ観念はひどく違和感がある。XHTML2.0になってこの観念は薄れるかと思ったが、どうもこの違和感は当分続きさうである。
或いは、p要素を段落として考へるからをかしなことになるといふ意見も過去にあった。ぐぐったら徳保さんのp要素は最小の節といふページが出てきて、大体のことは述べられてゐる。私はこの主張には賛同出来ないけれど、一意見として参考にはなる。
「ノヂタソだけど何か質問ある?」とか言つても何うせ「ネタ」の質問しか來ないだらうし、まともな質問でも何うせ「本当に無職ですか」とかその類のものだらうから、もつと具體的に「野嵜の用語・用字」に限定して「『意味が良く解らない言葉』『讀めない字』があつたら教へて」とか言つてみる。
使へる質問が澤山集つたら「闇黒用語の基礎知識」とか適當な名前のコンテンツをでつち上げて説明する。集まらなかつたら何もしない。
取り敢ず、「赤肩」と「ねこまたぎ」は入れた方が宜しいかと。「フラットでリニア」はもう古いか。さういへば最近「なめくぢ君」はどうなったんでせうか。
個人的な質問であれば、「ノヂタンは眼鏡さんらしいですが、いつから眼鏡をかけてますか。その眼鏡は何代目ですか。そして何個目ですか。今度新規フレームを購入するとしたらどんなデザインにしたいですか」等云々。
365日生き続ければ、今日といふ日は嫌が応にもやって来る。
それだけの話である。
私はきちんと dl マークアップと h マークアップを区別しているつもりだ。「何かのタイトル」であるだけでなりふり構わず hx でマークアップしたがる人間を「見出し厨」と呼んでもよい。
久樹の場合は、『(dt要素でマーク付けされた文章)とは(dd要素でマーク付けされた文章)である』として文脈に違和感がないかで判断してゐます。といふか、読み上げブラウザ向けとして実際CSSにそのやうな補助文章を挿入することは「あり」です。当サイトでは、blockquote要素内にcite属性を出力する際は「〜より引用」といふ一言を補助文章として挿入してゐます。
尤も、この方法では「日付と文章で日記のマーク付け」や「名前と台詞のマーク付け」の類は誤といふことになってしまふのですが。
当たり前の話ではあるが、W3Cの仕様に則ることはHTMLとして正しいのではあるが、それが即ち合理的であるとは限らない。普通、私たちがその仕様を採用するのは、その仕様が合理的妥当性を有するからに他ならず、単に盲目的に仕様だからと従ふのであれば、それは信者と罵られても仕方のないことです。
ならば「合理的であるかどうかの最終的な判断を下すのは何か?」と考へると、それはメンテナンス性であったり、一貫性であったり、或いは思想や正義と言った類のものも登場してきます。それらが個々の立場から考慮し合った結果、「この仕様は採用に値する合理性を有する」といふ判断を下して、初めて私たちはその仕様を採用する気になるわけです。つまり、HTMLの仕様の正しさは仕様書が示すものであっても、HTMLの仕様の合理性は、私たち利用者が判断すべきことです。もし合理的でないと判断されれば、より合理的な方法を求めてそれなりの対処を取れば良いだけの話です。
ゆゑに、HTMLにしろなんにしろ、解説は必ず「何故それが正しいのか?」といふ説明を加へなければならない。正しさには正しさの根拠を述べなければならず、根拠は、何らかの形であれ論理的、合理的なものでなければならない。勿論、合理的なものに対して感情で反論するのであれば、「非合理である」といふ批判は正当性を持ちます。まあ、確かに世の中には非合理である方が好ましいものも存在はしますが、少なくとも「規格」と呼ばれるものに関しては、合理的であるに越したことがないと思はれます。
だからこそ、正しいHTMLの解説は、同時に合理的なHTMLの活用法であるべきです。内容の正しさもさることながら、その点をないがしろにしてゐる解説は碌な解説ではない。仕様書だって合理的な見地から書かれてゐるのに、個々の解説でその合理性を失ってしまっては話にならない。
それにしても、言っていることは正しいが相手を納得させられない
といふのは、一体どういふものなのだらうか。正しいのに納得出来ない。納得出来ないのは、どこかに反論や瑕疵を指摘する余地を残してゐる事実に他ならないと思ふのですが、どういふ事なのだらう。もし「言ってゐる事は解るが言ひ方がむかつく」といふ次元の話であれば、それは読む気が失せる以前の問題です。それこそ「子供の喧嘩」。子供の喧嘩と言ふものは、喧嘩が終はった後には必ず内省を必要とするものです。
CSS關係者へ37の質問+αへの久樹 アマテルの回答。凄く久しぶりに答へた気がする。ついでに、ひっそりと5つばかし質問を足して答へてみた。各方面の回答に採用するかどうかは各人にお任せします。
嗚呼それにしても、北村さんとこのまとめに載ってゐる私の回答へのリンクが、古い旧サイトのURIだといふのに今更ながら驚き。これ以上URIは変へたくないもの。といふか、この1年で私の考へ方(といふか、技術に対する捉へ方)も随分変はったものですね。
一問すげえ恥ずかしい質問が入ってゐたけど、あれはもう修正利かないんだらうなあorz
単純にHTTPヘッダの応答を見るだけならHTTPレスポンスヘッダといふものがあり、私はいつもここを利用してゐます。日本語である分多少は取っつきやすい気がします。
前にもこういう毒を吐いたことがありますが、その捕捉先がいわゆる信者系サイトの場合、「当サイトは XHTML1.1+CSS がウンタラでださいブラウザでは表示が崩れてカンタラですが意味構造は明確なのでホンダラ」とかのよくある信者な戯れ言を書いている暇はあっても、書いてる人の名前とかそういう大事な事を書く暇は無かったのかいな、と思うケースがやっぱりある。信者的能書きも良いですが、その前にプロフィールを「これみよがし」に提示して欲しいのココロですよ、まったくもう。
全くもって同意する。所謂信者系サイトに限らず、サイトの案内文章(infoとかReadMeとか書いてあるやつ)に全然案内になる情報を書いてないサイトは意外に多い。或いは、本来案内文章に書くべき事をリンクページやその他のページにばらばらに書いてあるケースも(特に同人やイラスト方面のサイトで)多く見られる。案内と書かれたページを一つURIを与へてまで用意するのだから、それさへ読めば、そのサイトについての大まかの情報を把握出来るやうぐらゐに詳述されてあることが望ましい。当然、詳述するのは「このサイトの構造は〜」だとか「荒らしは駄目〜」と言った普通の閲読者にとって殆ど無用な情報でないことは言ふまでもない。
高天原の案内書はさう言ふ観点から記述されてゐる。だけど、実は今の文章もあまり好きではない。最初に表記に関する情報を書くのは良くないかも知れない。また、高天原の構造については目次にて理解してもらふことを前提にしてゐるが、これが良い姿勢かどうかも分らない。サイト構造が大きく(例へば言葉 言葉 言葉並みの規模に)なれば、もはや目次だけでサイト構造の把握は不可能だらうから、案内書にてより詳細なサイト情報について書くべき時が来るかも知れない。まあそれはとにかくとしても、目次と案内文章はそのサイトの中で最も平易かつ明瞭であるべきだと私は常に思ってゐる。
さとみかん方面の所謂「モヒカン」な方々の論争を見てゐるといつも思ふこと。
何某かの議論が起こった時に、まあ議論であるし、熱も入るのだから、多少口調がきつくなることは分らないでもない(実際自分もさうなのだから)。だがその議論が、末期には決まって罵詈雑言の応酬になるのは、如何なものかと思ふ。
少なくとも相手の態度だの口調だの資質だのをどうかういふ言葉は、議論の争点から考へれば全く不必要な情報である。阿呆が言はうが子供が言はうが気狂ひが言はうが、有益な話はそれだけで有益な情報である十分条件を満たすし、その逆も然りな筈である。文章は、不必要な情報――必要・不必要はTPOによって勿論異なる――を削り洗練していく作業があってこそ美しく仕上がる。0にする必要は全くないが、さういふ自覚は持つべきではないだらうか。
といふかですね、やっぱり話し合ひの中で少しでも良い方向を求めていかうと思ふのであれば(さうでないのなら議論なんてすべきぢゃない)、議論の中で争点は常に集約の方向を向いてゐるべきぢゃないかと、真っ向からぶつけ合へば拮抗する話が変な罵詈雑言で変な方向に拗れいくのは勿体ないのではないかと、後にまとめられたリンク集から応酬されるやりとりを見通して、いつも思ふことであります。
さっき、msxslにてXHTML1.1の文書をXSLTを用ゐて別のXML文書に変換しようと思ってゐたのですが、使用する前にパラメータ エンティティを定義しなければなりません。リソース 'http://www.w3.org/TR/xhtml11/DTD/xhtml11.dtd' の実行エラーです。ライン 85、位置 2 %xhtml-prefw-redecl.mod;
と言ふとんでもないエラーにぶち当たる。といふか、これを読むに、どうもXHTML1.1のDTDが間違ってゐる(数字参照をきちっとしてゐない)といふ話らしいのだが、真相はどうなのだらうか。まさか、これほどまでに致命的なミスが今の今まで放置されてゐたとは考へにくいのですが、少なくともXHTML1.0 Strictでは同様のエラーは生じなかった。もう少し原因を追及してみよう。
msxslだけでなく、同じロジックで処理をするIEでも同様のエラーが生じます。Firefoxではエラーは生じませんでした(DTDを参照してゐないから?)
取り敢へず、他にもこの症状が再現出来た方はゐませんか?
どうもmsxslのバグらしい。てか、これって凄く致命的なバグだと思ふんですけど、何で今の今まで放置されてゐるの?(MSXSL3.0だからかな? 4.0なら解決してゐるやも)
取り敢へず、処理中に外部参照を一切読み込まないやうにすることで問題は解決。他にもDTD宣言をhttp://www.w3.org/TR/xhtml11/DTD/xhtml11.dtdではなくhttp://www.w3.org/TR/xhtml11/DTD/xhtml11-flat.dtdで行へば良いらしい。こちらのDTDファイルは、通常版のDTDから外部モジュールの参照を予め展開したもの。
MSXSL4はどうもコマンドライン上で機能しないらしい。使へねええ。
昨年は皆様大変お世話になりました。本年度もどうか、よろしくお願いいたします。
さて、年明け早々でなんですが、私「久樹 アマテル」は、本年度の今日この時より「久樹 アマテル」へと改姓いたします。諸事情によるものですが、今後ともよろしくお願いいたします。
01/01 00:01 (H) 雑念雑記 久樹 アマテル さん
――嫌なニアミスの仕方だ。流石三宅さんはこの辺りきっちりしてゐるなあ。
あと、div.section#ID20051231233541 下 dl.footer が色々と間違えているかと思います。
といふ指摘、了解いたしました。どうもありがたうございます。