全ての色は平等に美しい

人は等しく死を選択する権利を持ってゐる

まづ第一に、人間には等しく生きる権利があると仮定する。では、この仮定を実際に証明させるためには、一体どのように考察していくべきだらうか。

突き詰めて考へていくと、私にはどうしても、生きる権利の裏には死ぬ権利が存在するやうに思へてならない。いや、本当のところ、生きる権利とは、生死を選択する権利の一つではないかと思ふのである。権利とは何らかの原理や存在によって一定の主体に賦与される、ある行為をなし、またはなさぬことができる能力・資格であり、生を為さぬ権利は、即ち死ぬ権利であるからだ。

人は等しく生きる権利があるとする。しかし人は何れ等しく、しかも必ず死ぬ。これはどうも、死ぬことが義務づけられてゐるやう思へる。権利は義務の裏返しである。権利がある以上は必ず義務を伴ふ。逆に言へば、死ぬ義務がある限り、私たちには生死を(物理的に可能な範囲で)選択する権利があるやうに思へる。言葉遊びであるのは分かり切ってゐるが、概ね、私はこのやうに理解してゐる。

とすれば、自殺・尊厳死は正当な権利である。逆に、人工中絶・安楽死は極めて不当な行為であると言はざるを得ない。道義上・法制上の問題がどうであらうと、最終的な生死を決定づけるのは必ず本人であるべきなのだ。

とすれば、自殺は正当な権利である。逆に、人工中絶は極めて不当な行為であると言はざるを得ない。道義上・法制上の問題がどうであらうと、最終的な生死を決定づけるのは必ず本人であるべきなのだ。

当然、例外はある。なんと言っても、生きたいと思っても生きられない人が大半である。死にたいと思っても死ねない人もゐる。植物人間の安楽死問題などはその典型だらう。

人工中絶にしても、最終的な決定権は胎児にあるべきである。しかし、ここに安楽死と同じ問題が発生する。生死の意志を、胎児は伝へることが出来ない。そもそもその判断をすることが出来ない。しかし、植物人間と異なるのは、その胎児は何れ成長し、自らの意志で判断できるやうになる日がいつかやってくる点である。

だから私は、胎児は遍く産み落とすべきであり、そして然るべき時に事実を告げるべきであり、そして改めて自らの生死を問ふべきだと思ふ。そこで絶望して自殺するのはその子の意志であり、冒されざる権利である。しかし、その段階までは猶予期間として育て続けるべきではないだらうか。勿論、親が育てる必要は全くない。裁判所にて親権放棄を要求し、認められれば育児義務は消滅する。育児の強制は親子共に良い結果を残さない。無理なら施設などに任せればよいのである。

となると、中絶が認められるべきなのは、出産によって母親の生命(心身)が著しく脅かされる時のみである。これは所謂「緊急避難」や「正当防衛」の範疇である。それ以外の事由(現在日本の法で認められてゐる経済的理由など)であれば、あくまでも原則(子を殺す権利を親は持たない)に従ひ、産むべきであると私は思ふ。胎児は物ではない。受胎8週間を越えた時点で、れっきとした人間なのだ。


まあ、といふかですね。私は今のところ両親が健在で、それなりに愛情を注がれて育ってきたと思ひます。誰もがさうであれば良いと心から願ってゐます。でも、さうぢゃない家庭がたくさんあることは事実です。上ぢゃああ言ってますけど、やっぱり悲しいですよね。

なにも博愛だの人道だのと言ひたいんぢゃない。でも、死なない限りはやり直しはきき得ると思ふのです。例へ可能性が限りなく0に近くとも、最初から0には絶対ならない。その可能性の芽を摘まないためにも、育児が今のままでは絶対不可能だと思った時には、躊躇なく必要な措置をとるのは道徳的義務であると思ふのです。かう思ふのは私が男だからでせうか。


といふわけで、久樹は人工中絶についてはかなり否定的な立場です。法で禁じろとまでは言ひませんが、禁じることにもそれなりの道理的理由がある。仮に禁じられたとしても、緊急回避の原則は適用されますからね。

もちろん、人工妊娠は大いに構ひません。


全ての人々が、あとほんの少しずつ優しくなれますように…。

自発的安楽死って尊厳死とは違うの?

ああ、言ひ方が悪かった。本人の意志を伴ふ(又は改めて回復見込みが消滅した場合の)安楽死は善いとして、それを伴はない安楽死は、尊厳死を守る為にも慎重に行ふべきだ。といふ話。用法がごっちゃになってゐました。

それにしても、Wikipediaによれば例として、呼吸の停止した患者に人工呼吸器を取り付け、その後自発呼吸がないのに取り外すのは積極的安楽死となる。最初から人工呼吸器を取り付けない(心肺蘇生法を施さない)のは消極的安楽死である。ほぼ同等の行為でありながら片方は認められていない行為となる(後略)とされてゐる。こんなのどうかしてゐる。本人意思を確認出来るか、まづ不可能であることが確定しないまでは、相応の治療努力をすべきぢゃないのだらうか。経済的に不可能であれば仕方ないにしても。

object要素問題についての久樹の総括

そろそろ議論も収束した様子なので例によって久樹なりの結論を出す。言ひッ放しは嫌ひなのである。

今回争点となったのは、p要素中にul要素(などのブロック要素)を含めるために、object要素を中間に咬ませるといふ手法の是非であった。双方意見がすれ違ったまま特に合意もなく終はると言ふいつのもパターンであったが、仕様書の解釈が云々といふ点で既に宗教論争の色を帯びてきたのも事実であり、まあ、言ってみれば「續ける意味」がなくなってしまったやうに思はれる。

原点に返って考へてみれば、原文は既にあるわけで、それをどうマーク付けするかといふのがHTMLの考へ方であり、そのマーク付けといふものは、あくまでも電算機に向けた補助的な情報である。つまりマーク付けに求められるのは、自然に不具合のない記法をすることにつきる。

さて、問ふ。object要素をp要素とul要素の間に咬ませる事に、一体どのやうな不具合が想定されるだらうか?

仕様書といふのは、言ふまでもなくその言語の挙動――どう記すべきか、処理すべきか――を定義したものである。仕様書中に書かれてゐることを守らなければ、何らかの不具合が生じて文句は言へない。例へばレンダリングが壊れたりするかも知れないし、XHTMLであればパースエラーが出るかも知れない。

仕様書中、object要素は――レンダリング規則として、まづobject要素のレンダリングを試み、それに失敗した時要素内のデータを代替的に表示せよ――としか書かれてをらず、少なくとも特定の記法を禁止するやうな事は書かれてゐない。もちろん、奨励するやうなことも書いてゐない。object要素には本データと代替データを記し、本データの表示に失敗した時要素内容を代替データとして表示する。といふのがobject要素の記法と挙動の全てである。

結論を言へば、最初からレンダリングが失敗することを前提としてobject要素を用ゐる、といふのは、仕様のあり方にそぐはない可能性が高い。はっきりとした黒ではないが、黒に近いグレーゾーンであることはまあ間違ひないだらう。

しかし、ここで考へて欲しいのが、少なくとも、object要素のレンダリング規則を見る限り、object要素の上記のやうな使ひ方をして、果たしてなにがしらの不具合が出るのだらうか? といふより、もし不具合が出たとすれば、それはレンダリングエンジン側にも重大な仕様違反があるのではないだらうか。レンダリングエンジンは、object要素のレンダリングに失敗した時、中身を正しくレンダリングする責任を負ってゐる。つまり何が言ひたいのかと言へば、仕様違反も実害がなければ看過しても構はないのではないか? といふ点である。

実際の話、例へばCSSなどで、有名な「技」と称して公然とブラウザ別のハック(振り分け)を行ってゐる。しかし、これはブラウザの不具合に依存し、仕様違反を含んでゐるケースも多々ある(単純にセレクタだけで振り分けしてゐる例もある)。或いは、IEに対してMIMETYPEをapplication/xhtml+xmlとせずにtext/htmlとしてXHTML1.1の文章を送信してゐるといった「技」も広く用ゐられてゐる(XHTML1.1ファイルをtext/htmlとして送るのは仕様違反)が、これらの技は一般に「やむを得ない措置」といふ風に解釈されてゐる。だが、必ずしも間違った考へ方といふわけでもないだらう。必要に応じて適宜現実と妥協するのは合理的な考へである。

仕様は守るべきである。しかしそれは、仕様を守らなければ誰かが迷惑を被るから、といふだけの理由に過ぎないと私は思ふ。誰にも迷惑を被らないやうなやり方であれば、多少の仕様違反は看過出来るといふか、別に気にするやうなことではないと思ふのである。

もちろん、「気に入らない」「気分が悪くなる」と言った理由で採用しないのもアリだし、「そこまでするほどのことでもない」といふ意見も尤もである。ただ、「そりぁさうだけど、やってたって別に構はないんぢゃない?」といふのが久樹としての結論である。

まあ何度も言ふが、ブロック要素とインライン要素なる不可思議な区別がある以上は、この手の問題が尽きることはないだらう。

一部に若干の修正。

いっそのこと OBJECT すら、嚼まさないってのは

別に構はないと思ひますよ。ただ、p要素の子供に直接ul要素を記述してレンダリングが壊れても、それは100%制作者の責任であって、レンダリングエンジンに責任はない。どうせ違反するなら、なるべく(自分を含めて)みんなが確実に幸せになる方法を考へるのが正当だと思ふ。その方法は幾つかあり、多分私もp要素を直前で閉じるやり方を採用するだらうから、object要素の手法は別に構はないといふ消極的な言ひ方をしてゐる。もっと端的に言へば「やりたければどうぞ」といふだけのものである。

ただ、私はブロックレベルやインラインレベルと言ふものの存在自体を疑問視してゐるので、どーせ、ただのマーク付けだよ。段落とかパラグラフなんて言葉に縛られていても虚しいじゃんかさ。などといひつつ、P要素の内容にブロックレヴェル要素が有るように見えても、それはインラインレヴェルとしてマーク付けしなきゃイケナイんだよといふブロック・インラインの観念に縛られる理由はどこにあるのか、これを機会に教えていただきたいところではあります。

「P 要素の内容には、ブロックレヴェルとしてマーク付けしないでね」っていうのは、「8mm のボルトに 10mm のナットは使えませんよ」ってな感じだと思うのよ。ブロックだのインラインだのってのは、どーでもよくて、ボルトに合ったナットで締めたいなっていうだけのこと。

なるほど、DTD上の話と言ふのであればそれで諒解。私とてそこまで文章に拘ってゐるわけではないので、p要素を直前に閉ぢるので十分。ただ、拘りたい人は拘る道もあるよといふだけの話。

といふか、仕様上でこれらの問題が解決されるのが一番綺麗で合理的な道だと言ふことについては恐らく某方面の大意であって、じゃあそれまでどうしようかといふところでの議論であるのだけれど、そもそも所詮暫定処置にそこまでぐだぐだ言ひ合ふのはどうよ、といふ思ひもあって、それが今回の総括の結論なのであります。実際、CSSハックやMIMETYPE問題はさうして一応決着してゐるのだから。

「P 要素の内容には、ブロックレヴェルとしてマーク付けしないでね」っていうのは、「8mm のボルトに 10mm のナットは使えませんよ」ってな感じだと思うのよ。ブロックだのインラインだのってのは、どーでもよくて、ボルトに合ったナットで締めたいなっていうだけのこと。

なるほど、DTD上の話と言ふのであればそれで諒解。私とてそこまで文章に拘ってゐるわけではないので、p要素を直前に閉ぢるので十分。ただ、拘りたい人は拘る道もあるよといふだけの話。

といふか、仕様上でこれらの問題が解決されるのが一番綺麗で合理的な道だと言ふことについては恐らく某方面の大意であって、じゃあそれまでどうしようかといふところでの議論であるのだけれど、そもそも所詮暫定処置にそこまでぐだぐだ言ひ合ふのはどうよ、といふ思ひもあって、それが今回の総括の結論なのであります。実際、CSSハックやMIMETYPE問題はさうして一応決着してゐるのだから。

ろばQ日記「Re: object要素問題についての久樹の総括」

さうですな。ええさうです。取り敢ず、仕様違反ではなく、別註で禁止と明言してゐるといふことにします。

半透過PNGを使ってみたかった

けうはそれっぽい日なので例のエロスタイルを公開してみる(雑念雑記限定)。テーマは「大宇宙の摂理」

さりげなく四十八手を織り交ぜ和の風味も加へられてゐる。

……やっぱ駄目かorz

(といふか、単に半透過PNGが使ひたかっただけだったりする。ちなみにIEだと無効。画像が重いので今月いっぱいで引っ込める予定)

00:07 (*****) 半裸PNG

00:07 (amateru) なんか半透過って言葉自体にエロスを感じる。

00:09 (*******) ゴミ袋に発情するてるりん

00:09 (amateru) orz

エロスタイル云々よりも、あの背景に「エロ」と感じるアマテルさんに対して「大丈夫ですか?」と聞きたい気持ちになりました。

大丈夫だったら今頃もっとはぴねすならいふをえんじょいしてゐる筈(泣き笑ひ)

あまりにも重かったので早々に公開終了。

めでたき哉

先程、12:03に無事男の子を出産しました。母子共に健康です!

母子ともに健康ます。しばらくいんたーねっつとか無理くさいので宜しくです。

謹んでご出産のお慶びを申し上げます。いや、ホントにめでたい。

なんと言ふか

今更言ふのも何だけれども――そもそもHTMLは可能か。

これが詰まるところの結論ではないだらうか。

原稿用紙的発想で済ませられるのであれば、HTMLは可能だ。でも、今のHTMLに求められてゐる諸々の事情を踏まへると、そもそもHTMLなんてものが成立しうるのかどうかといふ根本的前提を疑ひたくなってしまふ。

まあでも、今のところそれっぽいものは出来てゐて、それなりに標準化されてゐるのだから、おとなしくこれに甘んじるのが無難な道。大切なのは中身であって、公開方法なんて互換性さへありゃどうだって良いのだから、わざわざ修験者になる必要はない。それにつけて、XHTML2.0に対する久樹の期待は限りなく薄い。

何が本質かを考へて欲しい

久樹のローカル用XMLでは、object要素にしろリストにしろ全ての要素について「インライン」「ブロック」の観念を一掃してをり、純粋に「この子要素は是か非か」といふレベルで、定義してゐる。その結果、p要素はlist要素(ul要素とol要素を合はせたもの)を包括しうる仕様になってゐる。まあ、仕様といってもローカル仕様であるので、なんの拘束力もないわけだが、指標としては大変便利なものとなってゐる。

取敢ず、今の不備が多いHTMLの仕樣に從ふにしても、より嚴密な書き方をしたい人は、W3Cの指示する以上に、獨自にストイックな書き方をした方が良ささうだ。W3Cの言つてゐる事を超えた勝手な事はしないで、ただ、その範圍内でさらに限定的な記法を用ゐる。それならば文書の互換性は保たれる――もちろん、重要なのは文書の互換性である。と仰る野嵜氏の言葉に全面的に同感する。気持ちの悪い部分はさっさと自己解決して、一番気持ちの悪くない方法で公開するのが今のところ最も妥当な妥協案であると私は思ふ。野嵜氏はISO-HTMLに妥協してをり、久樹は独自XML(から出力されるXHTML1.0)に妥協した。少なくとも、得体の知れないclass属性で「これは引用だ」と言ひ張るよりは数倍マシだらう。

勿論、このローカル用XMLを公開したところで「制限がきつすぎる」とか「○○が出来ない」と言った批判を浴びることは分かり切ってゐる。しかし互換性を引き出すためには制限はきつい方が良い。さういふと「ぢゃあ何でlist要素は自由にしたんだよ」と反論されさうだが、制限にはその言語の目的と照らし合はせて相反しないといふ大前提が附く。件のlist要素についての条件緩和は「通常の文章作成において段落内に箇条書きは入り得る」といふ理由をもって緩和に踏み切った。不条理な制限まで抱へ込む必要など全くない。

XHTMLの方もかういふ考へを基に改訂していって欲しいのだが、少なくともXHTML2.0の案を見る限りそのやうな気配は殆ど感じられない。当分――ひょっとしたらずっとローカル用XMLにはお世話になるかも知れないし、一番互換性をもち、かつストイックな書き方許容されるXHTML1.0のお世話になるだらう。


ああ、肝腎のobject要素。object要素を咬ませるといふやり方は仕様上問題はないだらうけど、少なくとも「どうしても必要な時」「さうするのが最も妥当な時」ぐらゐに留めておくべきでせう。但し埋め込み対象を指定しない使い方はHTML 4.01の仕様上おかしいといふのは正論。ゆゑにblockとinlineの違ひとは何かで書いたやうに埋め込み文章を別途用意する。面倒だし、そこまですべきケースなんて想像もつきませんが、別に否定もしない。強いて言ふなら消極的肯定。ただ、それぐらゐなら元の文章の方をどうにかする。テキストありきといふ原則はあっても、より「状況に相応しい表現」といふのはあり得る。

以前dl-dt-dd要素かtable要素かなんて議論があったけど、あれは変な議論だったと思ふ。はじめにテキストありきと言ふよりは「はじめにデータ形式ありき」といった感じ。表かリストかなんて表現方法の違ひに過ぎない。より得手とする方法でデータをまとめるのは文章作成の上で当然の話なのに。

今年もインフルエンザは猛威をふるふ

莫迦は風邪をひかないといふ。私は齢20弱年生きてゐるが、未だにインフルエンザの類の伝染病に罹ったことが一度もない。これは果たして喜ぶべき事か悲しむべき事か。

百日咳とか気胸とか、さういふやたらマイナーな疾病には色々罹ったりしてゐるのだから、きっと悲しむべき事やも。

勿論、感冒(風邪)と流感(インフルエンザ)は全く異なるものだけどね。

blockとinlineの違ひとは何か

HTMLに明るい人たちの間にはもはや通説となってゐる「ブロック要素」と「インライン要素」だけど、私は未だにこの違ひがよく分ってゐない。むしろ何故こんな区別が存在してゐるのか疑問視さへしてゐる。

ブロック要素は構造記述要素であり、インライン要素は表意要素である。と、以前は脳内定義してゐたけれど、実際「じゃあblockquote要素とq要素の違ひってなによ?」と考へれば、単に「ブロック要素が入るかは入らないか」の違ひでしかないやうに思へる。もっと言へば「delやins要素は違ひがないのに引用にだけその違ひがある理由は?」といふ気になるし、かうなってくるともはやその違ひは意味のある違ひではなく、違ひ自体が意味になってゐるといへるのではないだらうか。

XML的発想で言へば、要素はどんどん「細分化」「厳密化」すべきだ。でも、それはHTMLの「自然なマーク付け」思想に反してゐる。「レベル4の強調」みたいな、すごく機械的な発想になる。確かにこれはこれでXML的には便利なデータであることは間違ひないけど、私たちが書いてゐるのは「データ」である前に「文章」だ。文章を書くのに不自然な形式は、HTMLとして相応しくない。HTMLはもう少し抽象化しても良いんぢゃないだらうか。もし特別に補ひたい情報があれば、title属性なりスタイルシートなりでいくらでも補助的に挿入出来る。「この要素はデータ的に違和感がある」なんていふ発想は、そろそろ脱却を目指して欲しいところである。HTMLはもっとシンプルであるべきだ。


ところで、uri指定されてゐないobject要素内に本来表示させたい文章を入れることに違和感があるのであれば、かういふ記述ならだうだらうか。

遠足の必需品は、達人、遠足太郎氏によれば、

お弁当、おやつ、遠足のしおり、リュックサック

だそうである。

----- (motimono.txt)

お弁当、おやつ、遠足のしおり、リュックサック

]]>

この方法であれば、少なくともobject要素の概念としては間違ってゐない。ただ、motimono.txtにtitle要素がないので、HTMLとしてみれば厳密に言へばDTD違反である。もっとも、title要素を入れたら入れたでDTD違反になるのだけれども(だから拡張子をtxtにした)

どちらにせよ、文章的に違和感のあるHTMLが悪いのは間違ひない。悪い部分は一貫性を持って速やかに訂正されるべきだ。

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